70年代の日本

50年前の日本IT業界はどうなっているのか?それを想像したことありますか?少なくとも僕はなかった。当時はバブル経済の真っ只中、様々は業界が物凄い勢いで伸びており、パソコン関連に例外ではなかった。いや、日本当時の技術と環境を考えれば、例外というべきかもしれない。

時代背景として、当時のマイクロソフトはまだ十数人という規模で、BASICが売れず、レガシープログラミング言語であるCobolを売っていた時期だったという。今村さんが大学に入学した年は、NEC8001が発表された年でもあり、パソコン元年と呼ばれていた。大学時代パソコン関連科目を専攻していたが、電子回路の授業に、半導体の時代なのに、真空管を教えていた事に嫌気が差し、パソコンに関する知識は全て雑誌から得ていた。

伝説のソード

当時コンピュータ雑誌に、ベンチャー企業による寄稿が多々あった。大学にも近いソード株式会社に興味を持ち、大学のOBが創業者だということもあり、81年からこのパソコン組立企業でバイトしていた。この会社は今でいうPC DIYとは程遠いほどの技術屋さんだった。70年代という時期に、日本にZ80という8ビットマイクロプロセッサが三つしかない時期に、ソードが一つ用いてパソコンを作ったほどなのだ。Z80とは:

AppleⅡがまだ発売されていない頃、インテルによって開発された8ビットマイクロプロセッサであり、19744月に発表された。その後、嶋正利らインテルを退社したIntel 8080の開発スタッフが設計を行っており、8080とはバイナリレベルで「ほぼ」上位互換性があるZ80を米国ザイログ社にて開発かつ発表した。

その技術力はシティバンクにも認められ、当時シティバンクのパソコンの多くはソード制だったという。富士ゼロックスのトークシリーズと呼ばれたパソコンのOEMもソードに頼んでいた。今では考えにくいでしょうが、当時のオフィス三神器とされていたのは、コピー機、FAXとパソコンだった。

ソードは今の日本では考えにくいほどのアントレプレナー精神に満ちた会社だった。研修といったファンシーな言葉がなく、アルバイトと社員しかない中、バイトに出張させたり、製品のデザインを行ったり、新入社員のトレーニングをされていたソード。新入社員となってからは、メーカーの打ち合わせに参加したり、名刺交換などもしていた。これは今村さんのキャリアを劇的に変えたという。

また、バブルという時期だからこそなのかもしれないが、仕事さえ終わらせれば、会社の研究開発の部品や機器を好きに使ってよいという環境だった。週休二日制ではなかった時代に、今村さん月200時間働く他、「自主残業」で好きなだけ研究開発をしていたという。ベンチャー企業で働きながら、「自分」のガレージで製品つくりしていたため、月400時間労働と頻繁の泊まり込みというのは日常茶飯事だった。

当時のソードがどんだけイケイケだったかというと、バイト時は100人前後の会社が、2年後には300人に増えていた。場所が足りないということで、オフィス向かいにあった蕎麦屋の二階を作業場として使っていた。入社二年後にソードが東芝に買収され、大手企業での勤務がそもそも好きではない今村さんは、取引先の某半導体商社に転職を決めた。雇ってもらったのも、彼の技術を見込んでの事だった。

バイト時代から色んな開発をしていた今村さんは、アラビア語のワープロを一人で開発していた経験もある中、一番重要だったのはやはりモトローラ社が81年に発表したVMEバス(VERSA module Eurocard)と呼ばれるものだった。ソードの社長が海外の展示会で見た後、既に開発が終わっているパソコン(半年後に出荷)を全てVMEバスに変えるという決断をし、今村さんもその一員だった。

0から1のベンチャー

そんな今村さんは半導体商社で2年間、自社が扱う半導体を組み込んだVMEバスボードを開発したり、受託開発などを行っていた。バンダイ、公文とミサワホームの合同出資による次世代ゲーム機の開発をするベンチャー「コンピュータプレゼンス」に入社し、3Dグラフィックプロセッサの半導体開発を行うことになった。

三社はそれぞれ狙いがあった。バンダイは打倒任天堂を目指し、ゲーム機を作りたかった。ミサワホームはホームPC、くもんは学習PCが欲しいかった。3D画像を動かすPCにGPUは欠かせないが、当時DRAMが1ミクロンのプロセス、マイクロプロセッサが7ミクロンという時代に出来たGPUはPS4のパッケージよりも大きかった。それを積んだPCをお家使える事もなく、教習所のドライビングシミュレータ向けに開発方向を変えた。資本金も1億円からに7億円にな増やした。

この間に、今村さんにアフターファイブの仕事が増えてきた。というのも、1985年にインタフェースに発表した「VMEバスの徹底研究」特集により、VMEバスに関する有名人になってしまったからである。以前200時間残業を経験していた今村さんにとって、できないことではない。重要なのは能力と体力のほか、開発に必要不可欠なものは測定器であった。こういった測定器は高額の上、レンタルするにも審査が必要。ただ、ソード時代に築き上げた業者との信頼が、「今村さんなら、個人事業でも支援しますよ」というサポートに、彼自身のベンチャーに基礎を叩き上げた時期であった。

コンピュータプレゼンスに勤務して2年、今村さん個人事業は既に年商1千万を超えていた。一人のアフターファイブ時間で1千万を売上されるなら、全職でやれば2千万になり、食っていけるという判断でハフトテクノロジーを立ち上げた。

平成元年に立ち上げたハフトテクノロジーは順調だった。キャノン、リコー、ソニー、富士ゼロックスなどがクライアントの他、1998年にスカパー!が立ち上がるとき、放送局設備のコアになる部分を開発した。会社の規模も四十数人に増えていった。

海外進出

事業は順調に進んだが、人材の確保は容易ではなかった。日本技術者の人件費は決して安くはないのと、競争も激しいという中、海外支社の立ち上げに目を向けた今村さんだった。当時中国がWTOに加入して間もなく、政府機構が日本でも招商セミナーを行っていた。中国での可能性をリサーチしている間に、セミナーで北京大学出身の教授を知り合う事になった。

北京でビジネスを立ち上げると決めた今村さんは、日本にある家や車などを売り払い、2003年に中国へ家族ごと引っ越しをした。SARSの真っただ中に。

当時の北京はWTO加入に合わせて、外国人が特定区域でしか住めない制限をも取っ払っていた。中関村と呼ばれる北京の北西に位置する場所は、北京や清華といったトップ大学が集まっている地域であり、エンジニアが多い地域でもある(シリコンバレーにスタンフォード大学とバークレー校がるように考えて頂ければ分かりやすいかと)。その中関村の北にある上地という場所は、レノボ、Huawei、IBM研究所が本社や拠点を置いている場所だったし、政府によるインキュベーターも設けられているため、上地での過ごすことになった。

当時の物価を参考までにいうと、タクシーの初乗りが1.2人民元、大卒エンジニアの給料が1万日本円というレベル。今では15~30倍に上がっているという、凄まじい経済成長を遂げた中国であった。ただ、今村さんにとって、人件費が安いのは良いものの、人材が使えないのでは意味がない。

というのも、今村さんのビジネスは北京オリンピックに合わせてのデジタルセットアップボックスとPDAだった(PDAを知らない人のために、ひと昔のスマホのようなもので、ペンが付いていてるパーソナル・デジタル・アシスタントと呼ばれるもの)。ハードウェア開発には測定器が必要だったが、北京の大学卒業生はプログラミングは出来たが、測定器に接した事がない。その上、転職が頻繁なため、育てられないという難点があった。後に深センこそそのビジネスにあった場所と知り、2005年に事務所を立ち上げた。

北京人のように生活する日本人

さて、SARS真っ最中に家族ごと北京へ引っ越しした今村さんの悩みは想像以上だった。まず、北京に到着した際は、SARSの事例がなかったので安心していたが、中国首脳会談とされる両会が終わった途端、100件以上の患者が確認されたという。その時点で、学校を含めて色んな機関が‘封鎖された。船便で届くはずの荷物も天津港で引き止められた。全ての荷物が届くのは6か月後の事だった。

住んでいた上地にSARS患者が増えており、中国語が話せないので、言葉が通じない現地の病院に行っても意味がない。外国人向けの病院が電車で2時間ほど離れた場所にあるため、万が一SARSにかかった際の不安は常にあったという。

小学校一年生と中学校一年生のお子さんの教育に関しては、電車で2時間かかる日本人学校に通う選択肢はなかった。そのため、ローカルの学校にアプローチした。上の子は電車で1時間程度の学校へ行き、国際クラスに入ることになった。下の子はそう簡単にはいかなかった。

今でもそうだが、中国に進学競争は激しい。親にとって一番の悩みといっても過言ではない。そのため、小学校から良い学校に行くことが、将来良い中学、高校そして大学に入れる可能性を上げる重要なステップである。今村さん住まいの近所にある小学校もそんな「良い小学校」であった。

そんな「事情」を知らない今村さんが学校に行くと、「うちはレベルが高いです」、「中国語も話せないのに、うちに来ても勉強なりませんよ」とごもっともな意見と共に断られた。不幸か幸いか、SARSによって学校も休校していたため、半年間中国語を勉強できる時間があった。日本人学校に通っていた二人の学生に、SARS真っ只中に、交代で毎日家に来てもらって、中国語を教えてもらっていたという。

半年後に再度例の「良い小学校」に行けば、お子さんの中国語レベルが相手を驚かせるほどまでに進歩していた。ただ、レベルが高い学校であり、要求も高い。例として出されたのは「学生の親がクラスにエアコンを付けてくれたけど、貴方は何をしてくれるんですか?」。そんな大金は今村さんにはなかったので、通訳を通じて交渉をした結果「じゃあA3のプリンターを三台」という条件に値下げした。お子さんもようやく順調(北京について半年後)にその学校に入学を果たしたのである。

2005年には、子供もすっかり北京の環境に慣れ、中国人の友人も出来た。ビジネスの方はスムーズにはいかなかったものの、着実に進んでいたが、今村さん健康状態はもう血を吐くほど望ましくなかったのと、反日デモが盛んだった時期のため、日本へ戻ることになった。

いつものように、あっという間に2時間が経ちましたため、北京での事業に関しては、次回のトークに紹介頂ける事になりました。

注意事項: このメモはゲストから学んだ事を深く理解するためであり、私自身主観的な解釈が意識的、または無意識的に文字に反映されています。そのため、このメモよりゲストのお言葉の引用をお控えください。実際に何をどういう状況、口調、形で会話された内容に関しましては、ポットキャストにて全てご覧頂けます。

About Dan Zen Learning
断然ラーニングはシリアル・アントレプレナー、IT業界の営業とマーケティングを熟知し、12年日本、10年台湾、6年北京での仕事経験を持つトライリンガル、毎日何らかを学んでいるダンより提供。
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