免責事項: このメモはゲストから学んだ事を深く理解するためであり、私自身主観的な解釈が意識的、または無意識的に文字に反映されています。そのため、このメモよりゲストのお言葉の引用をお控えください。実際に何をどういう状況、口調、形で会話された内容に関しましては、ポットキャストYouTubeにて全てご覧頂けます。

Davidはアントレプレナー、ベンチャーキャピタリスト、エンジニアを米国、台湾と日本での経験があり、毎年いくつかのバイオリンコンサートとマラソンをもこなすマルチタレントでもある。彼は僕が今まで見たことないほどの「イイ人」であり、日本台湾米国について語れる少ない友人でもある。

「遅れている」台湾

米国生まれのデイビットは1989年に台湾へ引っ越し、アメリカンスクールへ通い始めた。当時の台湾の公共交通と言えばバスト列車しかなかった。列車は日本が使わなくなった中古列車を使い回し、バスもそのようだったと記憶している。アメリカ育ちの彼にとって、台湾は発展途上で、遅れていると感じるのも無理はない。

今でこそ台湾人は礼儀正しいという印象があるものの、当時はそうではなかったと彼は語る。牛肉麵を注文する際に列などなく、直接人海の隙間に入り、店長か女将さんに「牛肉麺、大を二つな!」と大声で伝える。バスに乗る際は、あたかも不倫発覚したタレントを取材する記者のように、人波が乗車口へと押し寄せる。

一つのカルチャーショックとしては、台湾人は知らない人に対して、愛想がよくないという。決して態度が悪いわけではないが、アメリカ人のように軽く雑談をしないらしい。それがお隣さんだとしても、挨拶止まりで、それ以上会話が発展することがないという。それは台北の話で、僕が育った田舎では、大人たち(特に女性)は結構雑談してた記憶がある。

そんな見知らぬ人との雑談を懐かしむデイビットが高校卒業時の中国語レベルは小学校4年生だった。エレンよりも低かった理由は、二年間日本語を習っていたからだという。

「進歩しない」アメリカ

大学はアメリカへ戻った彼にとってショックだったのは、街なみが全く変わらないアメリカだった。テクノロジーが世界をリードしているものの、人々の生活に重要なインフラや共同交通などの改善は見られなかった。

110年以上の歴史を持つニューヨーク・シティの地下鉄。故障は頻繁で、プラットフォームも汚いし臭い、なのに都市は数十億ドルの金を新しいビルに使い、住民が毎日使う地下鉄の改善に使用しないという。かつて遅れている台湾と思ったデイビットは、今台湾の環境はアメリカよりよほど良いと語る。

逆カルチャーショックがあるとすれば、話題が飛び交うグループの会話だろう。一つのトピックが終わらないうちに、既に次のトピックへ移っている。そのスピートとチェンジにデイビットはついていけなかった。アメリカへ留学したことがある方なら、少なからず似たような体験があるのではなかろうか?

その理由は恐らく、FacebookなどのSNSが出てくる以前から、「私を見て」「私に注目を」という「文化」が既にアメリカに深く根付いていたのではないかと思う。そのグループで一番面白い経験、一番笑わせるジョークを話さないと、スポットライトを浴びられない。そのスポットライトを浴びる時間の長さが、自分が学校生活においてのソーシャル・ランキングを決めるインジケータとなっていた。

電子と情報工学

彼がカリフォルニア大学のバークレー校で電子と情報工学を専攻した理由として、もともと数学が得意だったのと、コンピュータ・ゲームが好きだったが、決め手となったのは、「判らない物に対する好奇心」だった。

今ではパソコンを組み立てる人はほとんどいないだろうし、本体を開けてメモリやハードディスクをアップグレードする人も少ない。当時は選択がなかった。大きくて重いパソコンをパソコンショップに持ち込むのは大変だし、「出前サービス」などもなかった。ゲームをもっと流暢にするためにメモリ交換などをしなければならないため、パソコンを開けたデイビット君は、「なんだこりゃ?こんな沢山のパーツは何のためにあるんだろう?」という好奇心から、電子工学と情報工学を学びたいと思った。

インテルで働いている彼のいとこのお兄さんからの半導体に関する知識やトレンドによって、「何だかよく分からないけど、凄く面白そう!」ということで、大学専攻が決まった。

数学や物理学の基本を二年ほど学び、三年生からは電子工程寄りのクラスに集中した。というのも、情報工学のロジックがなかなか理解できなかったという。プログラミングは出来たが、型にはまった形でしか出来なかった。「まだ情報工学を理解出来る年齢に達してなかったらしい」と、現在毎日のようにプログラミングするデイビットが笑いながら語った。

「大いなる力には大いなる責任が伴う」というベンおじさんの教えに従い(ウソ)、デイビットは学生会会長になった。色んなイベントとミーティングのために駆け回らなければならない彼は、就職という大事なことを忘れていた。周りが内定をゲットし始めてから、彼は徐々に就職活動を開始した。

人工衛星と半導体設計

1998年における彼の初仕事はバークレーにあったスペース・サイエンス研究所でHESSIという計画のプログラマとして働いていた。ウィキペディアによると:

RHESSI (Reuven Ramaty High Energy Solar Spectroscopic Imager) NASASMEX (Small Explorer Program) 計画の6つめ観測衛星として、200225日にペガサスXLで打ち上げられた人工衛星である(当初は「HESSI」と呼ばれていた)。太陽フレアにおけるエネルギーの放出と粒子の加速を解明することを目的として、現在も太陽観測を続けている。カリフォルニア大学バークレー校のSpace Sciences Laboratoryが設計し、管制している。

二ヶ月後、半導体会社であるQLogicからのオファーがあり、デイビットは未練なくHESSIから離れた。1998年と言えば、SPACE Xも無ければ、Elon Muskもまだ彼の一つ目のスタートアップZip2を手掛けていた。「もし当時SPACE Xがあったら、HESSIプロジェクトに留まったか?」と聞くと、彼は宇宙に多少興味があったものの、「マイ ドリーム」ではなかったので、SPACE Xがあっても留まらなかっただろうという(もっとも、SPACE Xがあったら、HESSIプロジェクトも恐らく当時より人気があっただろうし、競争も激しかったに違いない)。

QLogicに入社した彼は、SCSIというコンピュータと周辺機器の接続とデータ転送を担うインタフェースのICチップデザインを担当。最初は彼のいとこのお兄さんが言ったように、半導体の世界は面白いと感じたが、時間が経つにつれ、決まったルーチンワークに飽きてしまったのである。この時期にビジネスに興味持ち始めた彼は、台湾のベンチャー・キャピタルに就職する機会を見逃す事なく、再びアメリカを離れる事になった。

初のVCとスタートアップ

台湾のベンチャーキャピタルでの仕事は、勉強になったものの、彼の肌に合わないと感じた。特にそのVCは出資以外のことはやらないので、出資前は評価などで忙しいが、それが終われば、一年に数回スタートアップから報告をもらうのみという仕事。デイビットは金融でなく、ビジネスに興味持ったので、数字しか見ないベンチャーキャピタルでの仕事は一年ほどで終わらせる事になった。

その後に加入したのはレーザープリンターのエンジンを設計と製造する会社だった。創業者大きくて高いレーザープリンターを個人や家庭に適したデザインと価格で提供したいということで、所謂コンピュータをパーソナル・コンピュータにしたアップルのようなビジョンを持っていた。

営業とマーケティングの経験が全くないデイビットだが、この会社ではそれを全任された彼にかかったプレッシャーは凄まじい。一つの優勢があるとすれば、エンジニアリングを理解している所だろう。彼は製品マーケティングに関する仕事を学びながらこなし、最終的にドイツで開催されたCeBITで外資企業の注文を獲得したのである。それはこの会社設立以来の10年間、初めてのオーダーであり、30万ドルという少なくない数目だった。

しかし、創業者は売りたくなかった(え?)。2代目の製品でなく、3代目の製品を売りたいということで、そのオーダーが流れ、デイビットもスタートアップ企業で良いレッスンを学び、この会社を後にした。

在職中、この会社は定期的に技術の専門家を日本から呼び寄せ、現場通訳を通じて従業員に講義していたが、腑に落ちない通訳にデイビットは我慢出来なかった。例えば、コンサルタントが「#$@#($@#&%*@#&$(*!!&$#@&@)#&)%@#*$」、通訳が「No」という事に、彼は苦虫を噛み潰すような苛立ちを覚えた。このため、彼は日本語を学び始めた、何故なら「判らない事に対する好奇心」に勝てなかったからだ。

「厳しい」日本

日本の拓殖大学で語学留学している間、デイビットは再度いくつかのカルチャーショックに落ちた。自転車の二人乗りでお巡りさんに止められたというのが理解出来なかった(まあ、僕も理解出来なかったけど、交番近くでは二人乗りしなかった)。あと、日本で話されている日本語はまるで速読に感じたという。更に、謙譲語、丁寧語や尊敬語を学んでいなかったため、最初は極めて大変だったという。

彼の実家がエレベーター設計と製造の会社だったため、アメリカメーカーのバキューム式のエレベーターが日本市場で売れるのではないと考え、日本販売の独占代理権を取得し、それがデイビットの初スタートアップ経験となった。その同時に、彼はMBAのために、早稲田大学への入学が決まった。

基準、法令、事故

デイビットがエレベーターを販売しようとしたが、イノベイティブな製品のため、日本の法令に含まれていなかった(当時のエレベーター種類はロープ式か油圧式の二種類、今でもそうではないかと思う)。そのため、彼のスタートアップは法令と基準を定める事から始まった。

審査してもらうためには、製品に関する全てのサイズ、重量、運行時のパラメータなどが必要だった。メーカーはこれらの情報を持っている筈なのに、デイビットは取得するのに物凄く時間を掛けた。というのも、アメリカのメーカーからしてみれば、これらの情報を渡せば、製品を「コピー」される可能性があるということで、「そんなデータはない」とか「渡せない」と交渉が続いた。ようやく審査が通って、販売出来るようになったのは、会社設立から二年の時間が過ぎた。

ようやくスタートラインに立ったかと思ったら、エレベーター業界に驚愕の事故が起きた。2006年6月3日、東京都港区にある区営の特定公共賃貸住宅「シティハイツ竹芝」に設置されていたシンドラー社製エレベーター2基のうち1基で、自転車に乗ったまま乗降中の都立小山台高校の生徒が扉が開いたまま突然上昇したエレベーターのかご部分と建物の天井との間に挟まれ折りたたまれて圧死する事故が発生した(ウィキペディアから)

このため、日本政府は全てのエレベーターにUCMP(Unintentional Car Movement Protection)または「戸開走行保護装置」と呼ばれる安全システムの導入が求められた。デイビットの製品も例外ではない。時間は掛けたが、UCMPを獲得し、最終的に日本で製品販売が出来るようになった。彼の苦労が実った所で、台湾へ戻ることになった。

稲盛和夫とアメーバ経営

デイビットのおじいさんが1974年に起業し、台湾で第三のエレベーター企業の創業者である。2009年は会社が35年目となり、業績は順調で、上場も果たしたが、大抵の大企業のように、会社の中層とトップマネジメントが徐々に陳腐化していくのが判った。それを覆すために、おじいさんはデイビットの手助けだ必要だった。

改革の道標となるのは、稲盛和夫さんの経営信念であった。特にJAL再生に関する内容をよく読まれ、マネージャー達にも定期的に講義をしていたという。リストラや部署異動もあったが、企業改革にもっともインパクトを与えたのは、やはりアメーバ経営だろう。

一つ一つの部署をスタートアップのように扱い、部品の仕入れコスト、人件費、販売価格などをアメーバ毎に運営してもらうというものだった。こうすることで、今まで市場価格など気にかけなかった部署も、市場変化と自社の競争力などを考えざるを得ない。何故なら、作ったパーツXを他の「スタートアップ」に買ってもらわなければならないのだ。もしその売り先のスタートアップが他社から同品質でも低価格で購入出来た場合、パーツXは市場において競争力がないということになり、買ってもらえないことになる。そうすると、この「アメーバ」は生きていけない。もっと率直に言うと、このアメーバの存在価値がないということになる。

会社は2009年以来大きいな改善と変化を遂げ、デイビットは今でも会社改革に協力しているが、2016年から彼自身のAIにフォーカスしたスタートアップを始めた。

その話はまた次回の機会にしよう(トークが二時間以上になったので…)。

About Dan Zen Learning
断然ラーニングはシリアル・アントレプレナー、IT業界の営業とマーケティングを熟知し、12年日本、10年台湾、6年北京での仕事経験を持つトライリンガル、毎日何らかを学んでいるダンより提供。
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